哲学をビジネスにしている人々の間では、「実力も運のうち」というキャッチコピーが流行している。元々これは主に「能力主義(meritocracy)」に対する批判的な検討のために導入されたキャッチコピーだ。しかしこのキャッチコピーは、今では「格差社会」や「資本主義」に対する批判的な意識を先鋭化させるための「興奮剤」のようなものとして応用されている。

実際、成功体験を「実力」ではなく「運」に帰属させる発想は、成功体験を持たない者たちには都合の良い分析を可能にする。例えば、「あいつは運が良かった」という分析は、他人の実績や歴史を軽んじる者の嫉妬心を満足させる。一方、「自分は運が悪かった」という分析は、自身の選択や意思決定に伴うリスクの分析や責任を軽んじる者の保身を可能にする。「実力も運のうち」というビジネス哲学のキャッチコピーは、「他人に厳しく自分に甘い人間」には好都合な屁理屈としても応用できる訳だ。

しかし、この「実力も運のうち」というキャッチコピーは、決して万能ではない。この「他人に厳しく自分に甘い人間」が見落としてしまっているのは、「環境」のお陰で成功した場合であれ、「環境」のせいで失敗した場合であれ、自分自身もまたその「環境」それ自体の内部に包含されているという点である。

室内のインテリアや庭の花壇のように、我々はしばしば自分自身が設計した「環境」の中に自分自身を位置付けている。成功した原因にせよ、失敗した原因にせよ、その原因が「環境」にあるとするのなら、その<原因の原因>は自分自身にあるかもしれない。論理学的に言えば、<原因の原因の…原因>を遡ろうとすれば、無限に後退していくことになる。

このことの帰結として言えるのは、「自責」と「他責」の区別を導入することが、実は極めて困難であるということだ。全ての成功を自分の「実力」に帰責する成功者たちにせよ、あらゆる失敗を「運」の悪さに帰責する失敗者たちにせよ、この無限後退という問題を度外視している点では共通している。

ここまでの簡単な記述を踏まえれば、「実力も運のうち」というキャッチコピーは、「他人に厳しく自分に甘い人間」には好都合な屁理屈として機能するものの、最終的には堂々巡りの問題を生み出してしまう。真実は、時折「自責」が機能し、時折「他責」が機能するというだけのことである。しかし、まだ人生や社会に絶望しておらず、これから成功を目指し挑戦しようとする者にとっては、あらゆる<原因>を「環境」に帰責する「他責」的な志向は役に立たない場合がある。特に、統計学やデータサイエンスの領域で挑戦しようとする者にとって、「他責」志向は蛇足ですらある。

「他責」志向の人間に統計学はできない

確率論的に考えれば、上述した屁理屈には更なる盲点がある。それは、目的達成の成功確率を歪みのない「一様分布(Uniform distribution)」として仮定してしまうという盲点だ。要するに、この屁理屈を鵜呑みにする人々にとっては、ベイズ主義における「理由不十分の原則」(2)により、「成功する確率」と「失敗する確率」が等しく50%であるということになってしまう。それは、人生の成否が「全く歪みの無い硬貨」を使用したコイントスだけで確定すると妄想するあまりに、現実に存在する硬貨に歪みがある可能性を観察せずに済ませてしまうことに等しい。

成功要因を「環境」に帰責する「他責」的な発想を自明視すると、他者の成功体験から学習する可能性が喪われることになる。例えば「裁定取引(Arbitrage)」を実践している投資家たち(3)や「ブルーオーシャン戦略」を実践している起業家たちは、市場という自身に有利な「環境」を選択することで、勝利し続け、生存し続ける可能性を高めている。これに対し、成功確率を歪みなき一様分布として捉えた場合、自身に有利な「環境」(4)を探索するという発想を、そもそも抱くことすらできない。結果、現にそれを実践している意思決定者たちの事例から学ぶことができなくなる。

この意味で、「実力も運のうち」というキャッチコピーは、「興奮剤」ではあるものの、使い方次第では、劇薬にもなる。特に、このキャッチコピーを「他人に厳しく自分に甘い人間」が屁理屈として利用した場合は、劇薬になってしまう。屁理屈と化したこのキャッチコピーには、成功体験を持たない者から学習する機会や動機を奪い去ることにより、「失敗者を失敗者のままにしておく機能」が備わっている。

哲学をビジネスにしている人々は、このことを認知しないであろう。何故なら、その方が都合が良いためである。

確かにこの屁理屈を並べておけば、成功体験を持たない失敗者たちからの支持を得られ易い。この「実力も運のうち」というキャッチコピーを真に受けた支持者たちは、嫉妬で他人の成功から学習できなくなり、自分の意思決定の過ちを反省することすらできなくなる。そうして失敗者のままに留まる支持者が増えれば、「実力も運のうち」というキャッチコピーを流布するビジネス哲学も「マッチポンプ的に」儲かり続けることになる。だから、都合が良い訳だ。

注釈

(1)「実力も運のうち」とは、マイケル・サンデルの著書の邦訳版のタイトルである。英語版のタイトルは”The Tyranny of Merit: What’s Become of the Common Good?”であるため、この著書の内容を日本語の「実力」と「運」の区別によって論じるのは厳密ではない。とはいえサンデルが批判したかったのは、機会均等法をはじめとした制度に準拠した能力主義が格差の是正として機能するという発想だ。個人がその能力によって獲得した成果(Merit)をその能力の代償として定義すれば、能力主義(meritocracy)とは、勝者が財や貨幣のような社会の成果物を「総取り」することを前提としたシステムであるということになる。結果的には、むしろ能力主義こそが格差や不平等を拡大することに結び付く。サンデルは、やはり個人の成功体験を「環境」に帰責する発想を有している。こうした意味では、本書で指摘している<原因の原因>の無限後退という問題は、サンデルの主張にも当てはまる。しかし本書の本文中で言及しているのは、この米国の社会的背景を論じているサンデルの著書を日本語圏に紹介している人々で、とりわけその中でも「他人に厳しく自分に甘い人間」である。

(2)もし仮に「実力も運のうち」であるとすれば、人生における成功確率は、自身の行動というよりも「環境」に左右される。だが我々は、その「環境」の要因を知り尽くすことができない。したがって、統計学のベイズ主義に倣うなら、「理由不十分の原則(Principle of insufficient reason)」により、「環境」の影響下にある人間が成功するか否かは、50%であると仮定せざるを得ない。

(3)この関連で言えば、「あいつは運が良かった」という分析は、「投資」と「投機」を区別できない者たちや、「投資はギャンブルである」という固定観念に囚われている者たちとも相性が良い。一口に「投資による成功体験」と述べても、それが「インデックス投資」による成功なのか、企業業績や財務内容に基づいた「ファンダメンタルズ分析」による成功なのか、それともチャートに基づいた「テクニカル分析」による成功なのかによって、その成功要因は大きく変わる。そして、これらの投資戦略は、バブル経済や金融相場で見受けられる投機的な振る舞いから区別されている。勝利できた投資家に対して、「あいつは運が良かった」という分析を実践する者は、あらゆる「投資」を「ギャンブル」へと単純化することで、批判対象を自分の目線まで下げようとする。その動機がどうあれ、批判それ自体はこうした単純化によって可能になっている。

(4)無論、「環境」を選択する上でも、その意思決定の前提となる「環境」がある。つまり、<環境選択の環境>がある。しかし、<環境選択の環境>があるのならば、<環境選択の環境>を選択する上でも「環境」があるということになる。これもまた「無限後退」であろう。要するに、ビジネス哲学の言う「実力も運のうち」というキャッチコピーは、こうして無限に遡及し得る無数の「環境」概念の中から、特定の不都合な「環境」のみを選択した場合に可能になるキャッチコピーなのである。

参考文献

– Sandel, M. J. (2020). The tyranny of merit: What’s become of the common good?. Penguin UK.