問題設定:ブラウン運動の根源

顕微鏡で水面に浮かべた花粉を観測してみると、花粉粒子は時間と共にアトランダムな動作を繰り返しながら拡散していくことがわかる。この現象は、その発見者であるロバート・ブラウンに因んで、「ブラウン運動(Brownian motion)」と名付けられた。

熱力学的に言えば、ブラウン運動とは、熱運動している他の多くの粒子から不規則な衝撃を受けている粒子の運動である。粒子と粒子の衝突が一つ一つ識別できるほどに時間間隔を大きく取れば、この運動は微分不可能となる。ブラウン運動では、ある時間内で任意に規定した一定方向の運動の成分の二条平均が、その時間の長さに比例する。尚且つ、互いに重なり合わない時間内に生じる運動は、確率論的に独立である。

ブラウン運動における時間幅を任意に定めて、運動のある座標成分xだけを想定する。この時、t=0に対するx(t)を0とする場合、粒子が時間$$t_1$$で$$x_1$$と$$x_1 + dx_1$$の間に位置して、尚且つ時間$$t_n$$で$$x_n$$と$$x_n + dx_n$$の間に位置する確率は、次のようになる。

$$\frac{\exp{ \left(\frac{-x_1^2}{2t_1} – \frac{(x_2 – x_1)^2}{2(t_2 – t_1)} – … – \frac{(x_n – x_{n-1})^2}{2(t_n – t_{n-1})}\right)}}{\sqrt{(2\pi)^nt_1(t_2 – t_1) … (t_n – t_{n-1})}}dx_1 …d_{x_n}$$

ただし、 $$0 < t_1 < t_2 < … < t_n$$である。この確率系を利用すれば、様々なブラウン運動に相当する系列や経路のアンサンブルが、0と1の間にあるパラメタαで表現することが可能になる。つまり、アンサンブルの諸要素は関数$$x(t, \alpha)$$で表現されることで、xは時間tと分布のパラメタαに関連する。一つの系列や経路がαの空間に位置する集合Sに属する確率は、Sの測度に等しくなるように設定できる。この時、ほとんど全ての系列や経路は連続ではあるが、微分可能ではなくなる。

1905年、アルバート・アインシュタインは衝突する気体分子の研究からブラウン運動に理論的な解説を加えた。量子力学と統計力学はこの研究を契機に深化され始めたとも考えられる。

しかしアインシュタインのブラウン運動に関する研究は、既に1900年の時点で、フランスの数学者ルイ・バシュリエの博士論文によって先取りされていたとも言われている。特筆すべきなのは、この博士論文の主題が『投機の理論(Théorie de la spéculation)』であるという点だ。つまり根源的にブラウン運動は、運動する粒子ではなく、金融市場の営みの中から発見されていたのである。

「証券取引の動きを決定付ける影響は無数(innombrables)に存在する。過去、現在、あるいは数え切れないほどの事象が、しばしば如何なる明確な関連を持つこともないまま、証券取引の方向性に波及効果をもたらす。

諸変化の自然な方向性に加えて、人為的な原因(des causes factices)もまた存在する。証券取引はそれ自体に作用する。そして、現在の動きは事前の動きのみならず場所の位置の関数(fonction)でもある。

これらの動きは、無数の要因に左右される。したがって、数学的な予測(la prévision mathématique)に望みを託すことは不可能である。」

Bachelier, L. (1900). Théorie de la spéculation. In Annales scientifiques de l’École normale supérieure (Vol. 17, pp. 21-86)., 引用はp21より。ただし、強調は筆者。

周知のように、近代のファイナンス理論では、株価は基本的にブラウン運動に従うと想定されている。投資家や投機家は、この株価のブラウン運動を「ランダムウォーク(random walk)」という概念で再記述している。それは、金融市場の動力学を前提とした上で、市場における金融商品の価格は予測不可能であることを指し示す概念に他ならない。

バシュリエの博士論文は、この予測不可能性を主題とする先駆的な貢献であった。この論文が提出された1900年という時代には、主にオプション取引や先物取引をはじめとする金融市場が活性化していた。株価のアトランダムな運動を確率過程として分析する方法は、バシュリエの理論的な貢献なくして語ることができない。

「確率の計算(Le Calcul des probabilités)は、恐らく相場の動きには決して適用されない。株式市場の力学(dynamique)は、決して厳密な科学(science exacte)にはなり得ないのである。

しかし、所与の瞬間における市場の静的状態を数学的に研究することは可能である。つまり、市場が現時点で容認している価格変動に関する確率の法則を確立するのである。」
Bachelier, L. (1900). Théorie de la spéculation. In Annales scientifiques de l’École normale supérieure (Vol. 17, pp. 21-86)., 引用はpp21-22より。

量子力学と統計力学の決定的な契機となったブラウン運動の解明が、既に金融市場によって先取りされていたのならば、「統計的機械学習」の問題の枠組みの観点に立つ設計者の立場から観ても、金融市場とランダムウォークの関連を分析する取り組みは、実り多き発見を可能にする探索となり得る。「統計的機械学習」の問題が統計力学の後史であるなら、バシュリエ論文に始まるランダムウォークの概念史は、統計力学の前史に該当すると言える。

問題解決策:リスクと収益の区別

バシュリエ論文と近代のファイナンス理論は、共にリスク(risk)と収益(return)の区別を導入している点で共通した観点に立っている。

ノーベル経済学賞を受賞したハリー・マーコウィッツの投資の「分散化(diversification)」に始まり、ウィリアム・シャープの「資本資産評価モデル(Capital Asset Pricing Model: CAPM)」を経由した近代のファイナンス理論は、投資家の合理性を前提とした理論として記述されている。投資家であれば誰でも、リスク(risk)と収益(return)の区別を導入している。

バシュリエの1900年論文においても、「リスク(le risque)」の概念は、「収益(bénéfice)」や「利点(avantages)」との差異を前提に記述されている。近代ポートフォリオ理論におけるポートフォリオ最適化問題では、このリスクを収益率の「分散(variance)」で、収益を収益率の「期待値(expected value)」で記述する。分散が小さければ、期待値からの逸脱は小さく、リスクも小さいと見積もれる。

類似した発想は、バシュリエ論文からも抽出できる。バシュリエによれば、価格変動の幅(intervalle)は、時間の長さの平方根に比例するという。素朴に考えれば、価格変動の幅が大きければ、分散も大きいと考えられる。

だがこの幅の概念をそのまま「リスク」として再記述する場合には、注意しなければならない。と言うのも、この幅の概念は年率換算を想定していないためである。バシュリエに倣い、価格変動の幅をリスクとして捉えるならば、長期投資は短期投資に比してリスクが大きいということになる。年率換算したリスクに関して言えば、この限りではない。年率換算を度外視するなら、価格変動の幅と分散は、いずれも市場価格の予測不可能性を測定する概念である点で機能的に等価であると考えられる。

参考文献

  • Bachelier, L. (1900). Théorie de la spéculation. In Annales scientifiques de l’École normale supérieure (Vol. 17, pp. 21-86).
  • Einstein, A. (1905). Über die von der molekularkinetischen Theorie der Wärme geforderte Bewegung von in ruhenden Flüssigkeiten suspendierten Teilchen. Annalen der physik, 4.
  • Malkiel, B. G. (1996). A Random Walk Down Wallstreet (6. edition). New York.
  • Wiener, Norbert. (1961). Cybernetics or Control and Communication in the Animal and the Machine (Vol. 25). MIT press.
  • 竹田聡(著)『証券投資の理論と実際 ―MPTの誕生から行動ファイナンスへの理論史―』学文社、2009